小説を読んで解釈するということ
最近読んだ本で、「小説」という媒体について非常に腹落ちした一節がありました。
(略)小説となるとみんなその多様性や固有を理解しない。なぜか?
絵がキャンバスに描かれた”物質”であり、音楽が楽器によって鳴らされた音という”物質”であるのに対して、小説は”抽象”だからだ。
物質はまず間隔によって受容されるけれど、小説=文字は感覚を経ないでいきなり抽象として受容される。
保坂和志さんの『書きあぐねている人のための小説入門』という本での一節なのですが、これまでもやっと「小説」ということについて考えていたものが、なんだか納得いくようになりまして。
何がささったって、小説が抽象、という部分です。
小説が抽象ということは、読み手は小説に書かれた文字を読んで、解釈する、ということになります。
でも、何のイメージもなしに、文字そのものを受け取ることもできませんから、何等か解釈が必要になります。
で、解釈するのはその人のアタマの中なので、自然その人がそれまで蓄積した経験をリファレンスして解釈することになります。だから、人それぞれで受取り方が変わったり、読み易さが分かれたりする。
上記だけだとなんだかよくわかりませんが、例えば、「そこには、絶世の美女がいた。」という一節があったら、黒髪美少女こそが美女である!と経験上思っているある人は、黒髪美少女を想像するでしょう。
金髪の御姫様が美女でしょ!と経験上思っているこの人は、マリーアントワネットの如きお姫様を想像するかもしれません。
つまり、小説は同じ文を読んでも、読む人によって個々の解釈による世界ができているということになります。おもしろい!
同じ本読んで、他人とイメージ比較したら相当すごい結果になりそうだなぁと思ったり。。。
でこの話って、日常あるこんなことの答えになると思うんです。
「小説が実写化したら、俺のイメージと全然違うんだよなぁ、ショック!」
→そういっている人が頭で解釈したイメージが、実写のイメージと一致しなかったということ。
「大人になってから、改めて『星の王子さま』読んだら、全然子供の頃と受け取り方が違うんだよなぁ。不思議だ」
→大人になって、経験を積むことでリファレンスが増え、解釈できるイメージが子供の頃と異なったということ。
こんなこと考えてたら、おお、なるほどなー、と妙に腹落ちしてしまったんです。
最近ちょっと理由があって小説を書いていたんですけれども、その際に微かに感じた違和感、というか、普段絵を描いたりするときとは違った難しさとでもいうのかな、それが上記の「抽象である」ということに一部起因しているように思えてなりません。
絵だと、頭に描いたイメージを紙に落とすのですが、ついつい小説書くときにもイメージ先行で文字に落とすので、どう文字にすればいいんだろ、と考えるのですね。
そのときに、イメージと文字がぴったりと一致せず、なんだか隙間が空くかのような感じがするのは。
イメージと文字の乖離がある、ということなのかもしれません。
今回大学時代に立ち返ったかのような抽象論がつらつらっとしていますが、連鎖的にほかの考えておきたい事項があったので、ちょっとまた派生形を書きたいかも。
やっぱり表現って媒体によって、色々と特色があっておもしろいですね。